数千枚の波の果て

Since 2026.7.14

予測は計画ではない

もし学生時代に戻って、修学旅行に行くとしたらどこに行きたいかなどというトピックが飲み屋で飛び出したところ、そもそも「今更修学旅行に行きたくない」と言い出す人が多い。

「だって高校生に戻るんでしょ、お酒飲みたいし、タバコ吸いたいし、なんでみんなで一緒に行動しなきゃいけないんだ、あの手の集団行動は学校側に監督責任があるから仕方なく受け入れたことであって、それは学生だから未熟で監督されなきゃいけないからであって、今の我々には全く必要ない、どうしてそんなことしながら遠くに行かなきゃいけないんだ、それ、近所の飲み屋でもう一杯やろうじゃなあないか、ええい、ええい」

といった始末である。自分のことは自分で決めたい。それができるのが大人である。「子どもは自由だ」というが僕にはさっぱりわからない。子どもなんてちっとも自由じゃない。何するにしても親の都合に合わせて、親の目を気にして、時に盗みつつ行動するほかない。お金だってもちろん持ってない。スーパーで食べたいものがあっても簡単に買ってもらえやしない。そこで小賢しく交渉事を覚える。「帰ったら夕飯の支度手伝うから」とか「カゴ持つから」とか。カゴくらい持ちなさい。達成したい目標に向かって、行動を起こす。大人への第一歩である。意志を持つこと。その通りに現実を変えていくこと。大人は自分の意志が通じるように生きられる。修学旅行に行かなくっても自分で旅行に行けばいい。旅程も好きに決める。好きな時間に動く。飲む食う、寝る。帰る。そう思うと修学旅行には自分も行きたくないかもしれない。今更集団行動をするのは無理筋である。

旅行の予定を立てるときは何時にどこにいたいかを先に決めていく。決めたことから逆算して、朝何時に起きたらよいか、荷造りまで判断がつく。旅行に限らず、予定はそのように立てるものだと思う。もしも予定が上手く行かないようだったら、何か考慮が足りていないか、逆算して考えていない証拠といえる。

僕は10キロ走るのに60分はかかる。だから2時間走ったら20キロ走ることになる。単純計算だが実際に2時間走ってみたときの距離は、計算通りではないだろう。10キロ走るときと20キロ走るときでは力の使い方が変わる。体調だって毎日少しずつ違う。ベテランのランナーであれば計算通りに行くかもしれないが、自分みたいな素人にはできない。なぜならこれは予定ではなく予測である。予測は推測する、推し量るものであり、予定や計画ではない。

例えば一日で100ページ読める本があったとして、全部で300ページだから三日で読み終える、というのも予測であって予定ではない。予測は推測と推定だから、見込みが悪ければ外れてしまう。

三日前から読んでいる参考書があと数十ページ分残っている。これも一日読むページ数から概算三日くらいで読み終えるだろう、と見込み、推測したことである。何か目標がある、目的がある。そのために何をしていくか。勉強するうえでは計画を立てるべきだったのだ。(当たり前)

大人になったら計画を立てた方がいいことがたくさんある。キャリアプランを立てないと、僕のように宙ぶらりんでいい加減な人生を歩むことになる。プランはそもそも計画って意味なのだ。

まずは目標のために予定を立てる。その際に予定が崩れるようなことが起きるのをあらかじめ予測しておく。その予測をもとに、更に予定を修正して目標達成の確率を上げていく。そんな風に考えていくべきだと思う。わかっていてもできない。自分で思った通りに生きていないからか。いや、そうではないような。

というわけでせめて参考書を読み切ろうと図書館に来てみたのだけれども、ここに一所懸命文章を書いている。こうなることもなんとなく予測はついていた。こういうときは時間で行動に区切りをつけることが大切だ。と、20時になるまでこうして書いていました。