数千枚の波の果て

Since 2026.7.14

ほぼ引

昔友人に「一人で考えているよね」と言われたことがある。みんなそうだろうと思っていたけれども、今にして思えば一人で考えている人などいない。

「一人で考える」と言っても、考えることは社会のことだったりあるいは先人の知恵について考察しているのだから実際には「一人で考える」はありえないと思っている。何かはどこかで関係し合って息づいている。その中で人間は生きている。などと仏教っぽいことを言っておく。

件の友人は「人と話しているときに考えが積み重なっていくような気がする」と言っていた。積み重ねるリソースが自分なのか、他人なのかということであって、あまり変わりはないのではと今更ながら思った。

時間があるときについボンヤリしてしまうと「”考える種”が足りていない」などと焦ることがある。「考える種」というのは「考えるネタ」のこと。(ダジャレか~)何か考えていない状態だと何故か不安になる。頭が悪くなった、怠けている、堕落しているなどと焦燥感に駆られる。そんなことを人に話すと心配されるので誰にも言わないでいる。

在宅勤務でほぼ引きこもっていると、他者からの刺激が全くなくなる状況になる。略して”ほぼ引”の状態。代わりにネットで色々見る。その刺激しかないから、客観性に欠けてくる。”ほぼ引”で社会と繋がっている実感を持てていない状態で物事を考えると、どうしても偏ってきがち。だから人に会ったりすることは大切だし、普段自分が所属する社会とは別の社会と繋がっていた方がバランスよく物事を考えることができるんじゃなかろうか。ということに週五の在宅勤務でよくわかった。これはこれでしんどい。

歳を取って政治のことばかり、あるいは自分とは異なる性別や社会、国のことばかりSNSで否定的に書き散らしたりし始める人たちは考える種を持たずに、”ほぼ引”だからああなっているのだと個人的には思っている。偏らなければいくらでも何でも語っててよいのだけれども、ずっと同じ話するのって重度の酔っ払いと一緒じゃないか。

そんな風に思うと「慣れてきた社会(=馴染みの店など)」とは定期的に距離を作った方がよいのではないか。ということで昨日の日記で触れた店は今月あと一回くらい行ってから、しばらく距離を置くつもり。

というくらいの距離感でいるから属せないということなのだろうか。むつかしい。もっと適当に楽しめば、とも思うがそれじゃ飽き足りないこの気持ち、焦燥感って一体何なのだろうか。