数千枚の波の果て

Since 2026.7.14

2026年9月

  • 初バドミントン

    朝起きれば大雨。台風が近づいているという。

    そんな中で数日前に誘われたバドミントンについて、実施する旨連絡をいただいたので歩いて向かった。

    普段着でよいと言われていたので、Tシャツとジーンズ、体育館履きなどはないのでうち履きのスリッポンで赴いた。体育館に入ってすぐにグループを見つけたのだけれども、全員しっかりと運動着を着ており、バッシュのようなものを履いていた。ハメられた。

    とはいえ運動着を取りに帰ることもできなかったので、そのままの格好でルールを教えてもらいつつ、一所懸命にやってみた。何度か転んだけれども十分に楽しめた。悪くなかった。試合をやるのは初めてだった。初バドミントン。

    運動後に飲み会があったので参加しておいたけど、流石に内臓のつかれが出てきているような感覚を覚える。お腹がズッシリ重たい感じ。

    連休中だから気にせずに過ごした。

    バドミントンの競技性などについてはまた別途。

  • 断る強さ、たくましさ

    土曜日でも、よっぽど前日に飲みすぎていたりしなかったら五時半に起きるのに、今日は八時過ぎになってしまった。飲みすぎだったんちゃうんかいと思いきやそうでもなかったので、多分つかれてしまったのだ。むしろ解放感に呑まれたというか。義務的な飲み会ってほんとに楽しくない。少しでも能動的でないと、何の時間なのかサッパリわからなくなる。

    こういうことを元同僚と、新卒で入った後輩と飲みに行ったときに話していたら後輩は「結局誰に誘われるかじゃないですか、嫌だったらそもそも行かないです」と言っていた。断る強さ、たくましさ。自分もそうしたい。次の職場ではどんな人たちがいるんだろうか。楽しみだけどやや不安になってきた。

    つかれているものの、夜はまた友人との会食。転職のお祝いとしてウイスキーの小瓶のギフトをいただいてしまった。

    貰い物が多いと単純にうれしい。ありがとう。

  • 珍しいファインプレー

    送別会は開かれないと聞いていたのだけれども、つい先日開催するという連絡があり、今日がその日だった。

    どういうモチベーションでいたらいいのか、居住まいに悩みながらやり過ごすことにした。しかしながらアレだね。言葉の端々にトゲがあることを言われるから非常に嫌な気分にもなったのよね。そもそも送り出す場で「出戻ることになるかもね」的なことを言われるのってシンプルに気持ちよくないよね。

    途中から全部適当な相槌で返しつつ、トイレが近いことを理由に席を離して黙っていることにした。

    やっぱり職場の人は友人ではないのだよ。もちろん友人になることもあるけど、少なくとも送別会を開いてくれた人々はただの同じ職場の人に過ぎなかった。友人になったありがたき人々はもうこの会社辞めているのよね。

    退職にあたり、社長より名前入りの上質なボールペンを贈っていただいた。こればっかりは心からありがたかったし、うれしかった。社長は社名を入れたがっていたみたいだけれども、総務が止めたらしい。珍しいファインプレー。

    送別会のあとで立ち寄った居酒屋で飲み友にバドミントンに誘われた。運動着で行ったほうがいいか確認したところ、「何気合入ってんすかw普段着でいいですよwww」と嘲笑われた。体育館のようなところでやるらしいので雨天決行とのこと。地味に楽しみ。

  • 答えなんかないけれども

    「止まない雨はない、みたいな言い回しがなんか好きじゃないんだよね」と昔の職場の先輩がよく言っていた。「紋切り型の常套句を好まない」ということだと思うのだけれども、わかる気もする。今や確認のしようもないけど。答えなんかないけれども。

    止まない雨といえばここ最近の天気のようで、長く降り続く雨はどうにも陰鬱さがつきまとう。その陰鬱さは誰が決めたわけでもなく、言ってみれば反射神経であって思い込みに近い。

    表に出て用を済ませることがなければ何ということもない。

    要するにその状況において、適切な対処ができていれば気にならない、という話なのだけれども一体全体そんなわけにもいかない人々の社会生活はどういったことなのか。そんな十代のうちに考えるようなことを今でも不思議に思う。一度考えたことだろうと何度でも考えてみてもいい。

    常々答えがあると思って考えているフシがあるので気をつけておこう。

  • 知覧茶を買った

    家にいる時に流石に昼から酒飲むわけにもいかないので、よくお茶を飲んでいる。カフェインに弱いから50~60度くらいで淹れて飲んでいると、ちょっと眠くなる。カテキンが効きすぎているのだと勝手に思っている。

    半年くらい前に近所のお茶屋で買った緑茶がそろそろ終わりに近づいてきたので同じお茶屋へ行ってみた。

    ちょっと奮発して100g1000円の緑茶を買ってみようと思ったら、知覧茶も全く同じ値段で売られていることに気付いた。普通の緑茶と一体何が違うか、こういうときには折角だからプロに聞いてみたくなった。

    聞いてみたところ、緑茶は静岡県のお茶で、知覧茶は鹿児島県のお茶。だからまず生産地が違うとのこと。また、静岡茶と異なり、玉露の部分(ってなんなのかわからん)を使っているから甘みが強く、関西の人は知覧茶をよく飲む、とのことだった。関西人は知覧茶を好む。知らなかった。

    あと鹿児島県ってお茶の生産量が今日本一らしいのね。これも知らなかったけど、さっき調べたら二年連続みたい。トラクターみたいなのでガーッと収穫していて低コストで収穫できるとか。あと日本のペットボトルのお茶は大体知覧茶使ってるんだって。知らなかった、ほんとか。プロに聞いてみてよかったけど、玉露の部分って一体何なのだろう。

    前にこのお茶屋さんでお茶の値段について聞いてみたけど、100g600円はまあ普通に美味しい。100g800円だとそこまで600円と変わらない。100g1000円のは明らかに違うから、安物かどうかがわかるようになる、とのことだった。そこで話に乗せられて100g1000円を一度だけ買ってみたら、確かにこれはランクが違うのがよくわかった。まろやかでほのかな甘みと緑茶の良い香りがスッと鼻を抜けてくる。美味しかった。そのあとで600円のを買って飲んで、まあ普段はこれでもよいかなと思ったのだった。

    というわけで今回は知覧茶にして、帰って飲んだら以前飲んだ同価格の静岡茶よりも甘みが強い。自分の淹れ方とどこかマッチしている気がする。次はどんなお茶にしようか考えているんだけど、在宅勤務終わったら消費量が減るんじゃないかと思う。

    在宅勤務関係無しにもっとお茶を飲んでみようかな。

  • 厄介な変数

    もう7営業日ほど在宅勤務が続いている。人にほぼ会わない生活、会話もない生活はなかなかつらいと言いつつ、これが次の仕事が始まったらウンザリしてきたりするんだから結局はないものねだりなのか。

    在宅勤務だと基本的に昼食は自炊だ。この時期の自炊だと夏休み中のお母さんのごとく毎日そうめん。揖保乃糸などの高級品ではなく、暮らし良好の安いものを買い込んであるので消費していっている。まあ美味しくいただいているのだが、薬味のバリエーションにも限度がある。生姜、みょうが、小ねぎ、納豆、オクラ、とろろ、これらから2つほど選んでいくパターンになる。

    n個からk個取り出す組み合わせの問題に当てはめていくと、6種類の薬味から2つ選んで、重複なしの場合だと6×5/2×1=15パターンか。極めてどうでもよいが「自分の生活に寄り添う計算」というのはちょっと面白い。あと何があるかな。

    駅まで歩いて15分、バスで5~10分のところに住んでいます。普段はバスを使って出勤するのですが、このバスはしょっちゅう遅れてしまうことから見切りをつけて徒歩で出勤することがあります。この場合、バスの遅延が何分遅れになったら徒歩の方が駅まで早く着く、もしくは同着できるでしょうか。

    遅延する時間がわからないからxにすると、

    x+バス乗車時間=15となると徒歩と同着になる。

    バス乗車時間は「5~10分」だから、乗車5分なら10分遅れ、乗車10分なら5分遅れで徒歩と同着になる。遅延5~10分あたりが分岐点になる。

    もう少し単純にしたい。平均のバス乗車時間を7.5分とすると、xも7.5分。つまり8分遅れだったら歩いた方がよい。もう少し単純にしたい。平均のバス乗車時間を7.5分とすると、xも7.5になる。つまり8分遅れだったら歩いた方がよい。

    みたいな。答えを出すためにやや条件を変えてしまった。あとどんなのがあるかな。薬味をもっといじるか。

    2つ選ぶパターンじゃなくて、3つにするとどうなるか。

    6×5×4/3×2×1=20

    あれ、3つ選んでるのに5日分パターン増えてないか、すごい!貧乏人の財テク。

    じゃあ4つ選んだら、というと

    6×5×4×3/4×3×2×1=15

    今度は減る。

    5つとなるともっと減り、6つとなれば1パターン。

    組み合わせにおいてはちょうど半分くらいがもっともパターンが増えるということなのか。お~。

    バスの計算があっているか不安になったから、ChatGPTに聞いてみたところ「徒歩とバスの損益分岐点をもう少し現実的に」というダメ出しが入った。

    バス停で3分待ってから「もう歩こう」と決断した場合、その3分はもう取り戻せません。徒歩15分なら合計18分になるので、

    x+乗車時間=18

    になる。つまり「バスを待ってから諦める」という行為が一番損なのでは。どうやら人生には「見切りをつけるまでに使った時間」という厄介な変数が存在する。

    だと。やかましいわ!

  • 幻のソロアルバム

    四年くらい前、仕事が終わったあとで会社の最寄りの図書館へ通い始めた。目的は特にないということもなく、当時取得を目指していた資格の勉強をするために寄っていた。平日の夜の図書館は想像以上に人が多い。大学生がレポート書いたり、高校生が参考書積み上げていたり、スマホいじってたり。それ以上に多かったのは自分と同じような社会人。最初に行ったときは本当に驚いた。総務省の「社会生活基本調査」においては、令和3年の調査だと、社会人の一日あたりの平均勉強時間は全国平均七分らしい。七分って。

    学校の勉強だけが勉強ではない。むしろ自分は高校生の時には自分の気になったことを調べたりしていた。その手段の一つとして本を読んでいた覚えがある。そういう読書も勉強を含めたら確かに割と勉強しているのかもしれない。ただここ何年かはガッツリ集中して本を読むことがなくなっていたので、全国平均七分というのも不思議ではない。

    今もたまに図書館へ行く。ただみんながみんな勉強しているわけでもなく、全然勉強していないし本も読んでいないけど、ひたすら座ってスマホいじっている人もいる。そういう人に限って端っこの一番いい席に座っている。頼むから帰ってくれ。帰れ。

    一般販売されていない映像作品も借りられるのはあまり知られていないことかもしれない。先日『ハルをさがして』という一般販売されていない映画をレンタルした。この映画の主題歌が甲本ヒロトの『呼んでくれ』だった。この曲はスタジオ録音されているのだけれどもリリースされておらず、若干ピッチの早いカセットテープ音源が出回っているのみ。正式なスタジオ音源が聴けるのはこのDVDだけなのであった。

    ちなみにこのスタジオ音源は甲本ヒロトの発売されなかったソロアルバムの音源ではないかと推測される。当時ヒロトが組んでいたヒューストンズというバンドに参加していたピアニストの有吉須美人さんのHPに以下のような記載がある。

    Publications and Recordings:
    ~~略~~
    1995年
    甲本ヒロト(ロックバンド「ブルーハーツ」のボーカリスト、現ハイロウズ)のソロCDアルバム(未発売)に参加。

    このソロアルバムの存在はインターネット上だとここにしか記載されていない。その他メディアで見たことも今のところはない。その他のヒューストンズとして出回っている音源も、実際にはソロアルバムとして録音されたのではないかとにらんでいる。(95年に山中湖のスタジオで録音した、みたいな記事をどこかで読んだ気もするけどなんだったか。詳しい人教えてください)

    図書館のよさについてはまた今度にする。

  • 続ほぼ引

    社会人になると会社と自宅の行ったり来たりになり、そうそう出かけることもなくなったという人が割と多い。そうしていると、ほぼ引になる。(昨日の日記参照)ほぼ引になると自分に見えている社会が非常に限定的であるにも関わらず、その社会が全てのように思えてくる。会社という社会、家庭あるいは自宅という社会。その2つしか持たない人は非常に多い。

    僕の場合、こだま並みにぷらっと出かけるようにしている。(ほんとに蛇足な表現だ)出かける先はバーであったり、居酒屋であったり。街には小さな社会が確かに点在している。そういう小さな社会では様々な話が展開されて、その中で考えたことや発言したことは自分の中に蓄積されていく。

    以前「自分で考えようと思って考えていることなのか、考えさせられているのかわからなくなる」という話になった。選んでいるようでも選ばされているのではないか、ということと近い。誘導されているんじゃないかという疑念がどうしても生まれてくるという話。とてもよくわかる。

    この話をしていた人は普段何やっているかよくわからないけど、とにかく様々なことに精通していて「博覧強記」という言葉はこの人のために用意されていた、と思わされるような圧倒的な人だった。そういう人でもこの手のことで悩むことがあるらしい。本当に自由意志で考えているかどうか。

    その時代の社会によって、問題や課題は異なる。まさしく社会の授業でいうと、自分が小学生の頃には「フロンガスによるオゾン層の破壊」を教わった。今は小学校では教わらないらしい(情報提供元:家族)。調べたところオゾン層は回復傾向にあり、今後数十年で1980年頃の水準に戻るという。優先して習うべき知識は、四半世紀前と変わってきているということ。問題や課題が異なってくるのは状況が変わったから。

    それだけでなく、人の行動ももちろん変わる。自宅と会社以外の社会「第三の場所(サードプレイス)」に出ない(=ほぼ引)はスマホ普及以降進んでいるんじゃないかと思っているんだけど、こういうのデータで示すの難しそうなんだよね。「社会生活基本調査」というのもあって、見てみたけどあまり参考にならなそうだ。

    この調査の中に「交際・付き合い」に使う一日平均時間というデータがあるんだが、男性の場合2001年25分→2021年:8分、女性では2001年:27分→2021年:12分と20年間でかなり減って見える。コロナもあったからというのもあるけど、この20年でいうと右肩下がりの傾向で今年の調査結果が非常に気になる。

    ほぼ引という状況についてはなるべく陥らないようにしたい。出歩いて人と話すことを怠らないように。

  • ほぼ引

    昔友人に「一人で考えているよね」と言われたことがある。みんなそうだろうと思っていたけれども、今にして思えば一人で考えている人などいない。

    「一人で考える」と言っても、考えることは社会のことだったりあるいは先人の知恵について考察しているのだから実際には「一人で考える」はありえないと思っている。何かはどこかで関係し合って息づいている。その中で人間は生きている。などと仏教っぽいことを言っておく。

    件の友人は「人と話しているときに考えが積み重なっていくような気がする」と言っていた。積み重ねるリソースが自分なのか、他人なのかということであって、あまり変わりはないのではと今更ながら思った。

    時間があるときについボンヤリしてしまうと「”考える種”が足りていない」などと焦ることがある。「考える種」というのは「考えるネタ」のこと。(ダジャレか~)何か考えていない状態だと何故か不安になる。頭が悪くなった、怠けている、堕落しているなどと焦燥感に駆られる。そんなことを人に話すと心配されるので誰にも言わないでいる。

    在宅勤務でほぼ引きこもっていると、他者からの刺激が全くなくなる状況になる。略して”ほぼ引”の状態。代わりにネットで色々見る。その刺激しかないから、客観性に欠けてくる。”ほぼ引”で社会と繋がっている実感を持てていない状態で物事を考えると、どうしても偏ってきがち。だから人に会ったりすることは大切だし、普段自分が所属する社会とは別の社会と繋がっていた方がバランスよく物事を考えることができるんじゃなかろうか。ということに週五の在宅勤務でよくわかった。これはこれでしんどい。

    歳を取って政治のことばかり、あるいは自分とは異なる性別や社会、国のことばかりSNSで否定的に書き散らしたりし始める人たちは考える種を持たずに、”ほぼ引”だからああなっているのだと個人的には思っている。偏らなければいくらでも何でも語っててよいのだけれども、ずっと同じ話するのって重度の酔っ払いと一緒じゃないか。

    そんな風に思うと「慣れてきた社会(=馴染みの店など)」とは定期的に距離を作った方がよいのではないか。ということで昨日の日記で触れた店は今月あと一回くらい行ってから、しばらく距離を置くつもり。

    というくらいの距離感でいるから属せないということなのだろうか。むつかしい。もっと適当に楽しめば、とも思うがそれじゃ飽き足りないこの気持ち、焦燥感って一体何なのだろうか。

  • 何かの潮目

    飲みに行く約束をしていたのだけれども、先方都合で中止になり、手持ち無沙汰になったため、以前人に聞いたインターネット上に一切情報のない居酒屋へ2年半ぶりくらいに行った。あいかわらずゆったりした時間。600円のぶりの刺身が非常に美味しかった。安すぎる。

    この1年くらい週に1回か2回行くカウンターだけのお店があって、よく会う人々と話していたところ、その場にいるお客さんたちが店主とともに釣りに行ってからカラオケに行き楽しかった話で盛り上がっていた。そんなことをしていたとは全く知らなかった。

    色々思い出す。

    夏休み前に「『学校の怪談』観に行こうぜ!」と言っていたのに休み明けになったら自分以外のみんなで観に行っていたのがわかったこと。

    小学校3年生のときだったか、つっちーという子が引っ越してきて、近所のみんなで毎日のように遊んでいた。今の時代(当時も)は絶対やってはいけないマンション内鬼ごっこなど、スリリングな遊びで楽しんでいた。彼が引っ越してきてから1年後くらいのある日の昼休みに「昨日の誕生日会楽しかったね!」と盛り上がっているのを聞いてしまった。一体何の話だろう、誕生日会って誰のだろう。何も気にしていないかのように「誕生日会だったんだね」と聞いたら「そうそう、つっちーの!」と元気に返してきて、そこからつっちーを土屋くんと呼ぶようになってしまったこと。

    ひとしきりカラオケに行った話で盛り上がったあとで「~~みたいなこと俺らやってるんだよね」と悪気なく笑って教えてくれる店主たち。

    週に1回か2回行って、それこそ結構楽しく過ごしていたのだけれども、そういう輪の中に入れないのは小さい頃からずっと変わらない。一体これって何なんだろうか。落ち込んでいるとか悲しいということでもないのだけれども、属することができない人間であることを改めて思い知った。そういう内輪ノリみたいな常連コミュニティには入れない。

    以前全く別の店でも「みんなでバーベキュー行こう!」という話になったときも自分は参加しなかったのよね。参加できなくてもないんだけどそこに対して喜んで飛び込んでいけない。どこか一線を引いているのだよね、心のどこかで。

    職場が変わることで件の店にも行くことは以前より格段に少なくなるだろう。何かの潮目なのかもしれない。